私たち Ivycoast の商品展開では、できる限り国内で頑張るスモールビジネスの皆さんとともにものづくりをしたい、そう常々考えてきました。
そこには、日本の「作る」という文化と歴史、そして人と人がつながる“循環”があると信じているからです。
サステナビリティの観点から見ても、長距離輸送や商社を介さずに済むことで生まれる「時間」や「コスト」の差を縮め、ローカルビジネスを応援・支えることができる。
それが、これからの“豊かさ”の形なのではないかと感じています。
綿とともに生きてきたまち、愛知
今年4月、藍染を学びに訪れた際に耳にした「愛知県は江戸時代から綿栽培と綿織物が盛んだった」という言葉が、ずっと心に残っていました。
自分が暮らす「ものづくりのまち」に、そんな歴史があったのか。
その驚きと興味が、次の行動を導いてくれたのです。
調べていくうちに、名古屋には今でも数軒の晒工場(さらしこうじょう)が残っていることを知りました。
そして今回、念願の工場見学の機会に恵まれました。
晒(さらし)とは?
「晒(さらし)」とは、織り上がった綿布(木綿)に残る不純物、綿花由来の脂質や綿カス、紡績や整織で使われた糊、染色前の色素や匂いなどを取り除き、
白く・清潔で・使いやすい布に仕上げる工程を指します。
綿は本来、淡い茶褐色。
日本では室町時代に中国から伝わり、江戸時代に最盛期を迎えました。
大阪・愛知・兵庫・福岡などが代表的な産地で、庶民の間では「木綿の着物」が日常の装いに。
「育てる → 紡ぐ → 織る → 晒す」という地域循環型の産業が各地で息づいていました。
失われていった日本の綿
明治維新を境に、機械紡績が始まるとともに、日本の綿は次第に海外産へと置き換わっていきます。
現在、私たちが手にする綿のほとんどはアメリカ・オーストラリア・インドなどからの輸入。
日本の和綿に比べ、繊維が長く機械に適しており、安価で安定して供給できたことが理由でした。
加えて、日本の気候や環境では綿栽培の安定が難しいこと、さらに合成繊維・化学繊維の登場によって
「しわになりにくく・安価で・大量生産できる」素材が主流になったことも、木綿産業の衰退を加速させました。
98年の歴史を紡ぐ「平野晒工場」
今回訪れたのは、名古屋市北区・矢田川のほとりにある 平野晒工場。
創業1927年、98年の歴史を持つこの工場では、現在4代目と、その息子さんが伝統の技を受け継いでいます。
息子さんは法学を学び、大手企業での経験を経て海外へも渡ったのち、
「この晒の文化を残したい」という思いで家業へ戻られたそうです。
私たちが手にする心地よい綿の製品は、
綿を育てる人
糸を紡ぐ人
布を織る人
不純物を取り除く晒し屋
色をつける染め屋
裁断・縫製する職人たち
多くの手と時間を経てようやく形になります。
その過程の長さ、手間の尊さを、どれほどの人が想像できるでしょうか。
光にさらされ、白く息づく布
伊勢湾台風の被害を受けながらも再建された平野晒工場。
今も半世紀以上前の大型釜や脱水機、布をたたむ機械が現役で稼働しています。
これらはすべて、愛知の職人たちの手で定期的に修繕されながら使い続けられているのです。
漂白・脱水された布は、なんと500メートルを超えることも。
それを約8メートルの高さから吊るして自然乾燥させます。
夏場の繁忙期には、早朝4時から夕方まで、その作業を何度も繰り返すそうです。
(全て手作業)
かつて名古屋には20件以上の晒工場がありましたが、今ではわずか4件。
そのうち1件も、今年閉鎖されたと聞きました。
水と太陽のまち、名古屋北区
名古屋市北区にはいくつもの川が流れ、岐阜の山々から届く清らかな水がかつての晒しを支えていました。
その川辺では、泳げるほど澄んだ水のそばで、白い布が太陽の光にさらされていたそうです。
「晒(さらし)」という言葉も、
“日(太陽)”と“西(方角)”を合わせた「太陽の光にさらす」ことから生まれたといわれます。
矢田川の土手で、光にゆらめく布。
その光景は、さぞかし美しい原風景だったことでしょう。
つなぐ、ということ
約100年続くこの工場の営みは、
“ものづくり”という言葉の本質を静かに語りかけてくれます。
手をかけてつくられるものの温かさ。
古くから受け継がれる日本の手法を守り、文化を絶やさぬように技を磨き続ける人たち。
その努力が、次の世代へと静かに受け渡されています。
私たち Ivycoast の製品も、こうした地域産業を少しでも支え、
その光の一端を未来へつなげていけたらと願っています。

平野晒工場
名古屋市北区
工場見学や、週末のオープンファクトリーでのガーゼ生地などの販売も行われています。
詳細はInstagramのDMよりお問い合わせを。



